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惹かれる言葉
いったんフランス・スペイン話から離れることにする。

帰国後やっとこの本を手にした。
「日本語が亡びるとき」

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
(2008/11/05)
水村 美苗

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日経新聞に以前作者の方の談話が載っていたのを読んだ。
記事には、”美貌自慢の”母の介護に身をやつしながら原稿を書き連ねて行った作者の肉体的・精神的バトルが綴られていて、本にその執念が宿っていそうな気がした。

読み始めは想像と違い、口当たりのいい食前酒の味だったけど、やはりそれはあくまでスターター。ついに本題に突進し始めた。まだ途中。でも思うことがいくつか。


● スーパーのレジに並びながら何を考えるか

日本語・日本文学の没落を憂う作者の姿に、芥川賞受賞者 磯ざき憲一郎さんの姿が重なった。

後者の場合、自分の外に自分よりも大切なものがある、という事実を外に発信せねばならない、という使命感が背中を押しているという(昨日の日経新聞夕刊)。

たとえばスーパーのレジに並んでいて、日本文学の行く末を憂慮したり、外に広がる価値観を考察したりする人と、私のように、「しまった。隣のレジ打ちの人のほうがベテランだった。あっちに並べばよかったよぉ・・」などとまるでみみっちい発想しか持てない人。

大体日々の懸案事項として、自分の周囲半径数百m程度の範囲にしか考えが及ばない人のほうが多かろうと思う。

恐らく、水村氏の場合は、小説家として日本語という非普遍語による作品を発表し、翻訳という手段を経ないと自らの作品が世界的になりうることができないというジレンマが一連の思考の端緒である可能性は多分にあるし、

磯ざき氏の独自の視点は子供の誕生というプライベートな体験から得たものらしく、
2人とも起点は確かに個人的なこと。

ただ、そこから敷衍的に世界をとらえることができる人とそうでない人の二方向に分かれて行くらしい。
両氏には頭が下がる思い。

今回、私が得た教訓は -

「これからスーパーのレジ待ちのときは、もっとマシなことを考えよう・・・」

うーん、高尚でもなんでもない、そんな程度のことしか浮かばない。


■ では、スペイン文学はなぜ開花しなかったのか?

「日本語が・・」の本は、英語という普遍語で書かれた文学の優位性を述べている。

ふと思った。普遍語ではないにしろ、スペインのみならず中南米で話されているスペイン語は、ある種普及語といってもいいのでは?

なのにたとえばスペイン文学をあちこち探したとき、セルバンテスとロルカぐらいしか目の前に現れなかったその層の薄さはなぜゆえなのだろう?

言語の汎用性と文学の相対関係について今後本書で掘り下げられるのかどうかはまだ読み始めなのでわからないけれど、もしかしたら文学が開花する、しないは、言葉がもつ深みに人がどれだけ惹かれるか、にかかっているのではないか、と思う。

スペイン語を勉強中のときのことだ。
なにか勉強用に文学性の高い本はないかな、と探したが、魅力的なものについぞ対面しなかった。

ジロ出発前、イタリア語を勉強中のときのこと。
吉本ばななのキッチンの翻訳文に何本も下線をいれる自分がいた。
たとえば:

「La sua voce mi diede una tale nostalgia che avrei pianto.」
原文では
「泣きたいほどなつかしい声がいった」

スペイン語でも上記のイタリア語と同じ構文で文が作れるけど、でもイタリア語だから情感が出る。間違いない。スペイン語じゃだめ。似て非なるもの。

世の中にはつい書きたくなる言葉とそうでない言葉が存在するのではないか、そう思えて仕方ない。

水村氏の著書が述べるように、もし日本文学がかつてほど隆盛でないとしたら、それは日本語の使用範囲が狭められ、無限の可能性を持つ豊富な語彙が死語になりかけているから、そんなロジックは考えられまいか?

もっともまだ本は3分の1も読んでいない。自分の中で勝手に先を急ぐのはやめよう。

ひとつ、読書中、はっとしたのは、
(現世の話はとりあえず置いておいて) 一昔前の日本文学は確かに燦然と輝いていた、という指摘。

スペイン文学によさげなのがない、と感じた理由は、それとの比較・その転写だったのか、と気がついた。
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2009.07.17 Fri | Books| 0 track backs,
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