日常風景 * 写真・文章 Copyright@”Mas Ciclismo Diary”
フィリッポ・リッピのお墓 in スポレート
気品と魅惑的雰囲気をまとった聖母子を描いたルネサンス期の画家フィリッポ・リッピ。
イタリア・スポレートでは、そんな彼の遺作となった壁画を見ることができる。

今回の旅のメインの目的が、この壁画鑑賞だった。
場所は、市内にある大聖堂(ドゥオーモ)。


P1720721.jpg


こちらにはそのフレスコ画のみならず、彼のお墓もある。↓
場所は、中央祭壇部に近い右手。

一緒に作業をしていた息子フィリピーノが作製したと聞く。
フィリピーノはボッティチェリの弟子となり、父や師の画風を受け継いだ。

父のように女性を追いかけまわした話は聞かないので、
女たらしの遺伝子は、それほど引き継がなかったのかもしれない。


P6170197.jpg


リッピはもともとフィレンツェからある種の出稼ぎ状態でスポレートにきていた。
突然の客死という状況で、フィレンツェのメディチ家は、遺体引き取りを求めた。

しかしスポレートは首を縦に振らず。
芸術家たちの宝庫として栄華を極めた彼の地ではだんだん大切に扱われなくなったリッピを呼び寄せ、
手厚くもてなしたその意地と誇りがあったのかもしれない。

街の宝としてこの地に葬ることとした。
メディチ家は折れて、資金だけを提供したという。

P1720719.jpg


そんな生き生きした史実は
辻邦生の「春の戴冠」にもさりげなく盛り込まれている。

たとえばフィリッポ親方のことを考えても、何もわざわざスポレトに行かなくても仕事はありそうなのにさ、あそこで、はじめて大きな仕事を見つけたんだからね。もっともフィオレンツァでは味わえないような待遇を受けているらしい。兄弟子が帰って来て、そう言っていた。



半月ほどのち、フィリッポが壁画を描いているとき、突然、発作が彼を捉え、間もなく息を引き取ったという報せがスポレトからフィオレンツァに届いたからである。人々の話では、スポレトに行ってからも相変わらず美しい女たちに熱中し、死ぬ前日にも・・・(略)

コシモが死んでからのち、フィリッポの描く甘やかな憂鬱な白と緑の色調は、メディチ家の当主から遠ざけられていたふしがある。数年後、ロレンツォはパオロ親方に壁画を依頼したのであったが、フィリッポとパオロとでは、色調、形態、気分、方法がすべて異なっていた。パオロ親方の絵は装飾的、図案的な画面に、きわめて抽象的な幾何学ふうの遠近法がほどこされていた。



フィリッポが死んだのが10月9日のことで、私がサンドロ(ボッティチェリ)に会いに行ったのがそれから4,5日あとだったと思う。フィオレンツァの市当局が遅まきながらフィリッポ親方の遺骸を市で引きとりたいと申し出たとき、スポレトの支庁ははっきりそれを拒絶した。理由はフィオレンツァには優れた画工も多いが、そうした画工に恵まれぬスポレトはフィリッポの墓を持つことで、都市の名誉にしたい、というのだ。




関連記事
2015.07.17 Fri | Travel-Italy| 0 track backs,
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
"shw-greenwood" template design by Shallwill