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日常風景 * 写真・文章 Copyright@”Mas Ciclismo Diary”
宮大工の棟梁小川三夫氏の講演会 詳細編
◆ 寺院の大修理にまつわるエピソード

先に書いた宮大工の棟梁小川三夫氏の講演会 の詳細版を記す。


まず、宮大工の仕事など、普段触れることのない独特の世界の一端を垣間見て
驚くことも多々あった。
徒弟制度の厳しさは言葉の端々から伝わり、空気を読むことがこれほど求められる世界もないのではあるまいか、
と思えるほど。

経験に裏打ちされた名言も多く、以下に内容をかいつまんで:


【初めに】
寺社が今存在する=修復を経てきた=新築とは違う
修復とは=自分をなくして先代の仕事をする

薬師寺の東塔の修理の仕事=それ自体を新築できる力量の人物が行わないと可能にならない
(それは技のみならず、考えの読み取りという意味で)
自分はそういう職人弟子を育てている。


【宮大工への道と徒弟生活】
自分は無駄口を叩くな、と言われ育ったのでくちはばったいが・・・

昭和39年9月修学旅行に行き、法隆寺1300年前に立ったといわれ興味がわいた。
栃木出身なのでつてがなく、18歳の時、奈良県庁へ。

西岡、という棟梁の名前を教えてもらった。西岡家は一族で宮大工をやっていたのだが、最初にコンタクトをしたのが偶然棟梁の西岡常一氏だった。
しかし門前払い。

長野飯山の仏壇つくりのところに弟子入り。家事労働とひきかえに弟子になり、学ぶ。
次に島根の日御碕神社で図面書きの仕事。

学んだわけでなく、人の何倍もかかり1年かかって仕上げた。
次に兵庫県の神社(注:家に帰って調べたところ、酒垂神社)の取り壊しに携わる。
3年目に棟梁から手紙を受け取り、法輪寺・三重塔の仕事に声がかかった。

これ以上研げないというほど刃物を研いで馳せ参じた。しかし、この程度ではダメだと無下に言われた。
その後納屋の掃除をさせられた=棟梁の道具を見る機会を与えてくれた、と直感した。

西岡一家が暮らす部屋の上に住んでいたため、音を立てないように細心の注意を払った徒弟の生活であった。
自由時間はない環境におかれて、初めて自分の癖がわかった。


【宮大工の極意】
宮大工は家大工とは異なり、大きな木を扱う。
大木ほど大きな癖があり、小木ほど癖は小さい。木の癖は、木のサイズに比例する。
木の癖は抑え込めないので、木をくみ取ることが必要となる。


【道具の話】
室町時代に道具が格段に発達し、そろい、格段に装飾美など技術が変わった。その前までは少ない道具で行っていた。

道具は指の延長である。
電気の力で行う仕事を先にやってしまうと、指を使う仕事はできない。

自分に合った刃物をもつと、それよりもっといい仕事をしたくなる。
弟子を育てるときは、理屈よりも、いい道具を持たせることを先にしている。

さらに、工作ではなく、執念のモノ作りをする者を育てる。
=出来上がったものに不満=ヤル気

感じ取ることが大事。よって日常生活は厳しい

一方で、見る人がいないと褒められないから、いいものはできない。

法隆寺:文字や数字で受け継がれたら、別物になってしまうだろう。
からだ(手)の記憶で受け継がれたからこそ引き継がれてきた。


【真髄】
嘘いつわりのないことを精いっぱいやれば、後で読み取ってくれる人が現れるはず。

飛鳥時代の教えがずっと引き継がれてきたわけでない。1300年前を読み取る人がいたからこそ、昭和によみがえった。
本物とは、いつの世も変わることなく伝わるものである。
伝統は、言葉で言うものではない。

ある日、西岡棟梁がきて、目の前でカンナで木を削って見せた。
透けるような極薄のくずだった。
そのかんなくずをもらい、それを見本とすべくガラスに張った。
棟梁がつくった見事なかんなくずを目指し、それに一歩でも近づくよう日々精進した。
それが唯一、棟梁から教わったことだった。

但し、直接的な指導はなくとも、一緒の生活から学ぶことは多かった。
TV新聞は一切なしと言われた。
西岡氏は鬼のように怖かったと言われるが、自分に厳しかった。

西岡氏の晩年の言:「煎じて煎じて煎じて、最後は勘」

例)「柱をまっ平に削れ」と言われたら -
→ そのまま測って平らにしたら、視覚的にはへこんで見える。
→ 実寸ではなく、目で見て平らに補正していく。

つまり「実寸」と「目の錯覚を考慮した寸法」、というふたつの寸法基準がある。
実寸通りではなく、目の錯覚を矯正してつくるからこそ美しく見える。


【寺社建築・木の話】
伽藍をどこにつくるか。
寺は普通、東に大きい川、西に太い道、南に低地、北に山を配すべしといわれる。
法隆寺の敷地はまさにぴったりの地形だった。(いわゆる家相)
東の青竜(青)・西の白虎(白)・南の朱雀(赤)・北 の玄武(黒・紫)という具合に呼応。

もし東に川がなければ柳、西に道がなければくちなし、南に低地なければ梅、北に山がなければ杏を植えて、それの替わりとする。

寺社建築に地盤は重要。
法隆寺の地盤は固い。
「木を買わず、山を買え」といわれるゆえん。

木として使用されたのは檜。
檜は2000年経過するまで強くなりその後100年で弱くなっていく。
杉だと900年。
檜の強さが際立つ。昔の人はその知識があったのだろう。

だから、寺社を復興する際も、35%は取り替え材を使用するが、65%はそのまま残す。

一つの柱は4つ割りで使用。

木組みは寸法で組まず、木の癖で組め。
木の高さは途中で変わるので、寸法通りにやってはだめ。
隅木=最初はぐらぐら。
力を相殺すること。
右に曲がる木は、左に曲がる木と組み合わせるなど。

かつて使用された尺の単位は、どの数字が用いられたかわからない。
よって、寺を全部測ることで、やっと尺が見えてくる。
全ての寸法を割り切れる数字が1尺となる。
尺の単位を見つけるのに1年がかり。
薬師寺の場合、1尺=29.6㎜だった。

木は生育の方位のままに使え。
フシは南に向けて使用する。=南に向けて枝出るから

古代建築もそうした基礎を守っているので長持ちする。
それを守らないと、耐久性は500年がせいぜい。

のこぎりのない時代=ふぞろい、生まれたままのかたち
木との格闘ぶりがわかる。

東大寺48mを可能にした図面もろくな道具もない時代
60年で奈良の都をつくった力はすごい


【薬師寺の話】
屋根は時とともにたわむので、作った当初はわざと逆に反り返らせている。

東塔:修復前なので、まっ平。1300年前は反っていたのだろう。
西塔:修復済み 反り返っている=これが1300年経ったら現在の東塔のように平らになる。

つまり現在の西塔と東塔は、今から1300年前(西塔)と1300年の時を経た姿(東塔)の両方の姿が見られる。
むろん、これらのちょっとした調整は図面があるわけでなく、推測で行っているのである。


【シンポジウム】
女性弟子はこれまで5人ほど

最初に門をたたいた女性は断った。弟子の男性が「(雑魚寝のときなど)緊張する」と言ったことから。

次に来た女性は、寝ても覚めても職人志望で家族が困り果てて、母親が、「ひっぱたいてもなにしてもいいので、
とにかくよろしく頼む」と言って連れてきた。女性弟子第一号。
その女性は6年修行し、伊勢神宮で一流の紙漉きに。

2番目は、最終的に産婆さんに。
次は3人がまとまって入門した。みな根性があり、同期の男性3人がすべてやめたのに対し、彼女らは残った。
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2014.04.18 Fri | Art| 0 track backs,
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