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日常風景 * 写真・文章 Copyright@”Mas Ciclismo Diary”
新聞にツッコミ
■ ”動詞”でやる政治

先の朝日新聞・天声人語。

去年9月の小欄で、中曽根元首相がかつて、新党さきがけの代表幹事だったころの鳩山首相に辛口の注文をつけた話を書いた。「政治は、美しいとか、キラリと光るとか、形容詞でやるのでなく、動詞でやるものだ」と


これを読んで、ふつふつと湧いてきた1つの疑問。

-- 中曽根さんは、かつて安倍晋太郎氏が「美しい日本」と叫んでいたときに、同じセリフを言っていただろうか?


と、同時に、我が意を得たり、とも。

-- そうそう、かつて「美しい日本」というスローガンを聞いたとき、そこはかとない違和感と失望を感じ、政権の短命さを予見した。
個人によって概念が異なる「美しい」などという抽象語を政治の目標に掲げるその真意が分からない。

新政権は、動詞で政治をやってくれるのだろうか。
私としては名詞でもよいのだけど ー「景気対策」


■ 不自由さの中で得る自由

以前、不自由さの中の自由というテーマに着眼したことがある。

不自由な時代に生きた人たちの芸術作品が、自由で豊かであることに驚き、、建築史家の陣内秀信さんと須賀敦子さんの対談を思い出したことを書いた。(その時のエントリー)

イタリアの建築が豊かなのは、歴史的外見を変えないといった制約条件が多いため、
限定的な環境の中で、最大限のものを引き出そうという努力し、それが建築学的スピリットを
向上させている。日本ではなんでも自由に建てられるから頭で余り考えなくなる、と陣内さんが言えば:

須賀さんも追随する:
「自由詩になってから日本の詩はとても貧しくなってしまった。」と。



と、そんなところに、先日の日経「プロムナード」に、「小説の自由」と銘打った文章が出ていた。
小説家の保坂和志さんの文。

例えばサッカーでは選手は自由にフィールドを動き回っているように見えても、ルールという拘束があり、自由自在に動きまわれる人ほど体や思考をその拘束に順応させているのだといった書き出し。

その不自由は、自由を獲得するための道のりであり、そして、
大事なことは、自由とは不自由の対極にあるのでなく、不自由のずっと奥にある状態のことである
と筆者は述べている。


これまでおぼろげに感じていた「不自由さの自由」というテーマを突き詰めると、なるほどこういうことなのか。


保坂さんは、作家の作品にもこれを当てはめている。
綿密なプロットという拘束の中から、やがて作品が自由に独り歩きを始め、作者の意図を超えて発展するのだそうだ。
作家はそのための露払い役に過ぎないと。

そしてそれは、美術でも音楽でも同じこと、と書いている。
サラリーマンの現場でも似たようなことがときにある。
様々な制約の中で活路を見出そうともがくことで、素晴らしいアイディアが生まれることがある。



 天声人語

最近、天声人語の文章の見分けがつきにくくなった。
前なら、「ああ、これは例の”軽くメタボ”の人の筆だな」、「こっちは少々お堅い系のもう片方の人の分だな」、などと思いつつ読んだりしていたのに。

天声人語に2人の人を置いているワケがわかった。
単に片方が書けないことを想定したバックアップ体制なだけでなく、切磋琢磨を意図しているに違いない。

2人で張り合わせるというのは意義がある。

ただ、6/1の「ミロのビーナス」の黄金比の話は、”軽くメタボ(*)”の人が書いたものだろう。
(*)四川地震でやせ衰えつつも生き延びた豚の話に感嘆しつつ、我が腹を恨めしげに見たという筆者の方。

だからこのときの文章も、無意識のうちに、「やせ願望」の話へと展開していったのではあるまいか。
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2010.06.06 Sun | Society| 0 track backs,
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