![]() | --- | 先日のエントリー「須賀敦子さんがヴェネツィアで見たものは、分断された絵の片方 ~ コッレール美術館のカルパッチョ」の続き。 今来日しているあの絵には上部に続きがあって、男たちが干潟で狩りをする様子が描かれている、つまりこの2人の女性たちは、夫の帰りを待ち焦がれる貴婦人の絵なのである、という事実に関連して - 矢島翠さんの「ヴェネツィア暮し」で、矢島さんがやはり須賀敦子さん同様この絵のことに触れている下りがある。 その当時はむろん、もう片方の絵の存在など知られていないわけだけれど、矢島は2人の視線の先に思いを馳せる:
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でも、こんなふうに2人の絵の中の女性をまじまじ見詰めながら、実は見られているのは鑑賞者である自分なのではないか、そんな思いにかられる矢島さん。
私たちが二人のヴェネツィア女を無遠慮に見ているように、別の視線が、絵に心奪われている私たちの不用意な姿を、二十世紀末の日常の書割りのなかにおいて、まじまじとみつめていないとは限らない -
矢島さんをして、これほど想像力を掻きたてられている。
それほど不思議な視線を投げかける2人が、実は夫の帰りを待っているだけ、となれば、カルパッチョにわれわれは引っかけられたという感じもしないではない。
普通の日常風景であるべき”狩りをしているであろう夫たちを待つ2人の夫人”を、ことさら意味深に描くことで、鑑賞者の妙な好奇心を煽るのが、作者の意図だったのでは?と勘繰ってみたくなる。
だとすれば、上に描かれていたオリジナルの干潟の絵は、やはり分断されねばならない存在だったのかもしれない。
そしてSSさんからのメール:
カルバッチョの絵の話、驚きました。
でもそう言われると、なんとも不安定な構図にも見えてきます。
天国の須賀さんが聞いたらどう思うでしょうね。
意外と「あら、そうだったの?」みたいなさばさばした反応が返って来そうな気もしますけど。
それと、須賀さんの作品にパリ時代の話がほとんど出て来ないという件、僕もずっと不思議でした。
思い出して書くのも嫌になる程、或いは伝えたいものが何も残らない程の経験だったのか。
僕の勝手な想像では、彼女は、様々な物事をきびしく峻別するタイプの人だと思うので、
パリ時代は永遠に封印すると決めていたのではないでしょうか。
(SSさんから)
日本で幼少時代とイタリア時代の記述の饒舌さに比べてフランス時代の寡黙さが際立っている須賀さんの作品。
焦燥感が先行したであろうあのときの思い出は心の中で切り捨てられていたのだろうか、
あるいは心の中でとどめることで、なにか作家として、自由さのようなものを確保しようとしていたのだろうか。
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2011.10.05 Wed | Art|
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