日常風景 * 写真・文章 Copyright@”Mas Ciclismo Diary”
カズオイシグロ ノーベル賞
細やかでひそやかな感情の襞を巧みに描き出した「日の名残り」(The remains of the day)の著者
カズオイシグロ氏がノーベル賞を獲った。

早速ノーベル賞祝いということで家にある2つの関連ものを探したけれど
ああ、見つからない。

ひとつはヒアリングマラソンのインタビューテープ。
氏が、「日の名残」のエピソードなどを語る内容だった。
(「The remains of the day」というのはもともと自分が発案したものではなかった。
オランダ人女性作家が署名候補として事前登録していたタイトルと、
自身が抑えていたタイトルをスワップしたそうだ。)

もうひとつは「The remains of the day」のペーパーバック。


2つとも断捨離の時に捨てたのだろう。
長い間手を付けていないものは、この先も手を
つけることはあるまい、と。

しかしそういうときは、突如やってくる。
しまった。


とはいえまあ、今やYOU TUBEでインタビューなどはあれこれ
聞くことができる時代。

ペーパーバックも図書館にはある。
(とはいえ今のぞいたら、遅かった。既に14人待ち。)

「Never Let Me Go」(「私を離さないで」)を読む楽しみが増えた。
まだ読んでいないのだ。

きっと 人の心にじわりじわりとゆっくり沁みていく
あの静謐な文章は健在なのだろうな、と読む前からわくわくしている。

2017.10.06 Fri | Books| 0 track backs,
挫折率の高い本
【超長い】読み切れない長編小説 名著15作(海外・日本国内)
というサイトを見つけた。

トップバッターはプルーストの「失われた時を求めて」。

「世界最長の小説。960万9000文字。ギネス認定。」とある。

長さもさることながら、この本のは特殊な語彙も多く、シェークスピアと並んで多彩、
というのは聞いたことがある。
フランス語は英語よりも語彙が全体として少ないので
(外来語の少なさも関係しているのかな?)
それを差し引くと、プルーストの語彙の豊富さはピカ一とフランス人が言っていた。


あとの読み切れない本14冊は、戦争と平和、カラマーゾフ・・、ユリシーズ、チボー家・・、
源氏物語、神曲などなど。

でも、「レ・ミゼラブル」や「ドン・キホーテ」にはやや違和感がある。
普通に読めた記憶があるので。

さらに埴谷雄高の「死霊」という作品が入っていたのだけど、
これは長さより読みにくさで仲間入りした印象だ。


学生時代、「失われた時を求めて」は、生涯手に取ることはあるまい
と漠然と思っていた。

フランス語は習ったこともなかったし、
ただ小難しいというウワサで遠ざけていた。

まさか原文で読む気になろうとは、自分でも驚きだ。

今やっと3巻目に突入した。
この作品は、伏線だらけなので、
後になって、ああ あそこと呼応するのか、という発見がついてまわる。

それゆえに過去の部分を読み返したりしているので、歩みは鈍い。


ここにきて、事実描写の部分は、読む際に加速度がついてきた気がするものの
哲学的・思索的な部分は相変わらず難しい。
単語の意味がすべてわかっていても意味が取れないことが多々ある。

時代と国の違いもあり、思考回路が別物なので、
ついていけない。

ただ、大雑把にこういう系統の思索なのだろうな、
といった方向性がつかめれば、まあそれでいいかと思っている。

同じ社交界に足を踏み入れて、同じ世紀末を生きてみないと、
結局のところ全面的に同調することは難しいのでは
と思えるから。


とにかくペーパーバックで全7巻すべて買ってしまった。
読むしかない。
”読み切れない長編小説”とされているものを克服するぞ、と気持ちだけは前向き。

今のところの感触としては、
言葉の美しさ、繰り返されるライトモチーフ、
工夫がこらされた言い回しなどの発見を楽しいと思える限り、
読了できるのでは、などと思っている。


2017.09.25 Mon | Books| 0 track backs,
「風の影」 <感想>
スペインの作家、カルロス・ルイス・サフォンの
「風の影」を読み終えた。

かなり読みごたえがある。

紙の分量もさることながら(文庫本で上下巻)
波乱万丈の内容で、決して軽い読み物ではない。


冒頭予感した
親子の心温まるホームドラマ、、、という筋書きはあっけなく覆され、
時代をまたぐ波乱万丈な人間ドラマへと発展する。


予想もつかぬめまぐるしい展開で、はらはらしたり、
息苦しくなったりと、心穏やかにページをめくることは
特に後半の大部分において難しく、
本をおいて深呼吸しないと読み進めないことも1度や2度ではなかった。

並行して描かれる2つの人生は、
予期せぬ方向へと流れ、
途中その重なりに気づいた時、
ダニエルの暴走が行きつく果てを想像し、
胸のざわめきが止まらない。


内戦、独裁政権が影を落とすバルセロナの街も丹念に描かれ、
街の残虐性と人間の凶暴性はシンクロし、
現実的な荒廃の中に、悲しさをたたえたメルヘンが入り混じる。


体験したことのない、壮大なドラマが一体
どんなカテゴリーに属するのか、単語を探し当てるのは難しい。

本流だけをつかめば、自己形成小説、Bildungsromanという言葉が思い浮かぶ。
プルーストの「失われた未来を求めて」が時折そう称されるように。

ただ、細やかな心のひだを積み重ねて描いていく「失われた・・・」とは異なり、
本書は、強力なストーリー性でぐいぐい引っ張っていく。

2つの人生を結び付ける手法は自然なやり方ではないものの斬新で、
すべてを一気にひとつの流れにまとめ上げていく。


バルセロナの暗い街角のごとく広がる重苦しさを希釈してくれるものは、
哀しみと優しさをたたえた存在感のない父センペーロや
はちゃめちゃなフェルミンの存在であり、
つまるところ、底辺に流れる作者のヒューマニズムや人間愛なのだと思う。

書物というものへの愛着も漂い、
残酷さの中にも救いを感じつつ読み進むことができた。

最後は爽やかな風を感じつつ
本を閉じた。




<風の影><読後感><ネタバレなし>
2017.09.17 Sun | Books| 0 track backs,
「源氏物語」現代語訳 河出書房・角田光代版と原文及びその他の現代語訳比較 
「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、
いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。 」


「源氏物語」の中で、私が唯一ソラで言える冒頭の1文だ。


角田光代さんが、この作品の現代語訳に挑戦されているというのは知っていた。
以前東大で開催された角田さんの講演会で
ご自身の口から直接聞いた。
なんでも池澤夏樹さんからじきじきに依頼されての執筆だったという。


全3巻のうちの上巻が刊行される運びとなったそうで、
上述の箇所、つまり冒頭の一文の角田版が日経新聞に出ていた。

目を通してみたところ、正直な感想は --
嗚呼、いじくりまわしすぎ・・・

もっとも、現代の日本語ですらすら読める、というのが
この本及びシリーズの趣旨なので、その意味では完璧な本なのだろう。

だから古典をこよなく愛する人は想定読者に入っていないのだと思う。
それを自覚したうえで、なお、こういう企画はなんだかなぁ
という思いを以下に吐露したい。


上述の講演会に伺ったとき、角田さんがおっしゃっていたのは、
純粋な原文からの訳ではなく、すでに出ている谷崎訳、円地訳、瀬戸内寂聴訳などを
読んだ上での現代語版とのことだった。
だから原文の意味は組んでいたとしても、
ニュアンスにおいてはある程度乖離するかもしれないな、とは思っていた。

ただ、「ある程度」では済まなかった。


ご本人も日経紙上で述べているとおり、足りないところを積極的に補っているので、
結果、原文をまったく読まずに、これだけ読む人には
しごく親切な本になっている。

でも、原文を感じながら、原文の構文を尊重したいと願う向きにはまったく不向きな結果になった。
文体だけでなく、そもそも古典の精神を捨て去った上での現代語訳なので
私には受け入れがたい。
だって、行間を考えながら、空いた部分の余韻を楽しんで読むのが古典のはずだから。


冒頭のたった2行が角田訳でどうなっているか、以下に抜き書きする。

「いつの帝の御時だったでしょうかーー。
その昔、帝に深く愛されている女がいた。
宮廷では身分の高い者からそうでもない者まで、幾人もの女たちが
それぞれに部屋を与えられ、帝に仕えていた。/
帝の深い寵愛を受けたこの女は、高い家柄の出身ではなく、
自身の位も、女御より劣る更衣であった。
女に与えられた部屋は桐壷という。」


あのたった2行がここまで膨れ上がっている。

最後の方は、性質としては脚注だ。
「女に与えられた部屋は桐壷という」と、
「帝の深い寵愛を受けたこの女は、高い家柄の出身ではなく、
自身の位も、女御より劣る更衣であった。」のくだりは、原文には一切ない。


その点、円地文子訳の方が原文にはるかに近い。

「いつの御代のことであったか、女御更衣たちが数多く御所にあがっていられる中に、
さして高貴な身分というではなくて、帝のご寵愛を一身にあつめているひとがあった。」


角田訳ほどまでに解説を盛り込んで現代口語訳にするのなら、
文学としてでなく、学習教材用として出したほうが私的にはしっくりくる。


ここまで解説がついてしまっては、もう文学という気がしない。

解説部分が重すぎて、重要な部分のフレーバーが完全に失われているから。

つまり、彼女の実際の身分が更衣だったのか、その更衣はどういう地位だったのか
なんていうことは抜きにして、
「いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり」がここの
エッセンスのはずた。つまり、

身分は高くないけど、ご寵愛をうけていた!!


角田訳では、その一番重要なエッセンスが出ていない。
文章がバラバラにされて、この部分の係り結び的関係が
断ち切られてしまっている。


もっとも、この私の感想は、お門違いなのかもしれない。
そもそも「池澤夏樹個人編集日本文学全集」というシリーズ
(源氏物語もこの全集のうちの一部)の趣旨を私が勘違いしているだけかもしれない。

古典をベースにして、それを現代文学に置き換える作業であり、
そこで古典をリファーすることは想定外なのかもしれない。


ただ、慣れ親しんだあの冒頭の言い回しが、
厚ぼったい内容になり、切り刻まれてしまったのが残念で仕方ない。

不鮮明な内容をそのまま残しておかないというのが基本スタンスのようだけど、
出てきたときによく理解できなかった言葉でも、
読むうちに徐々にわかっていくものだ。


英語の作品だって、知らない単語があったとしても、それが3度目に出てきたときには
自分の中で、霧の中をくぐりぬけた後みたいに意味がわかっているものだ。
いや、むしろ辞書を引かないからこそ、頭の中で最初は大雑把な訳をあてがい
だんだん意味が狭められていく、という過程を楽しむことができる。


日本語だって同じこと。
積み重ねられていった文章から、徐々に単語の意味やニュアンスをくみ取っていけばいい。

頭をまったく使いわずとも100%受動的に読める読み物に、
もはや古典の醍醐味はない。


2017.09.10 Sun | Books| 0 track backs,
「美しい夏の行方 イタリア、シチリア」辻邦生
辻邦生さんの「美しい夏の行方」を読んでいる。

美術にせよ音楽にせよ、美的なものに敏感で、
沸き上がる感動を、的確に極上の言葉で紡いでいく辻さんの
真骨頂とも言うべき作品だ。

スポレート、フィレンツェ、シチリアなどを再訪し、
若かりし頃、初訪問した時の記憶を辿ったり、
修復後の洗浄過多のヴィーナスの誕生(ボッティチェリ)を嘆きつつも、
美の殿堂イタリアに対する溢れんばかりの情熱を吐露していく。


その一方で、イタリアという風土への賛辞も忘れない。
カンポ(広場)で日長一日何もしない人々の姿に生への熱いパッショーネを感じ、
そうした熱気の渦の中に身を置くことで、
自身も思い切り生を謳歌していく。


美に打ち震え、生きているだけでも、祝福に値すること、とまで口にする辻さん。

辻さんの他の作品からも、美への耽溺傾向はうかがわれるけれど、
イタリア取材以降の書下ろし作品ということで、
その感情の波は増幅している。


ふと思った。
ある国に行って、芸術に触れて、ここまで耽美的なリアクションをする人は、
すでに絶滅危惧種になったのではあるまいか?

訪問前にネットで精密画像を見て、
町の情報を入手して、万全の態勢で旅に出る。

ああ、情報通りだったと確認する、それが旅のパターンとなっている。


もちろん目の前で実物を見ることは意義があり、感動もひとしおであるはずだけど、
未知の要素があるからこそ震えるほどの感動が促される。

辻さんが本書の中で、感動と興奮に包まれれば包まれるほど、
何か喪失感のようなものがじわじわと湧いてくるのだった。


2017.09.04 Mon | Books| 0 track backs,
泉鏡花展 @慶應義塾大学
泉鏡花展覧会に行ってきた。


慶應大学はこの幻想作家の関連資料を数多く有している。
慶應出身の作家がとりもつ縁で、
泉鏡花のご遺族から遺品の寄贈を受けたという。

戦争で焼けてしまったものもあるけれど、
手稿などは、図書館地下の倉庫に
福沢諭吉の関連資料とともに保管していたために難を免れた。


IMG_7503.jpg 



美しい装丁の著書もいくつか展示されていて、
日本画家の鏑木清方も、装丁を手掛けたうちの一人なのだとか。
鏡花本のファンだったそうだ。

その他、小村雪岱の絵にも味がある。


展示室の一角には書斎の再現もあり、
目の前には、観音像を置いていた鏡花。

机の上にはお酒が入った入れ物。
飲むためではなく、清めのお酒で、
時折原稿に振りかけていたという。


それほどまでに魂を込めて執筆に取り組んだ事実に驚くと同時に、
現代でそれはないな、と思った。

真剣味がなくなったという意味ではない。
パソコンにお酒を振りかけたら、クラッシュしてしまう、
という意味に過ぎない。

2017.09.02 Sat | Books| 0 track backs,
辻邦生 「美神との饗宴の森で」の先見性
> 現代は「コピー」(写し)の時代であると言われる。(中略)
> 「コピーがいかに情報を多く持ち、快適であっても、
> 生命から引き離されている事実は変りない。どんなに情報が少なく、
> 外面的な快適さが少なくても、「オリジナル」には生命がある。


上記は、著書「美神との饗宴の森で」の中で、
辻邦生氏が20年以上前に鳴らした警鐘だ。

書かれたのは1993年。
インターネットが日本で一般的に使われるようになる以前のこと。

そんな時代からすでにコピーの危うさを自覚していた辻さんの
先見性には驚かざるを得ない。


盗作・模倣などはむろん大昔から存在したではあろうけれど、
20年前のコピーというのは今に比べれば大したことはないはず。
それでも危機感を募らせていたというのはさすが、
創作の人ならではと思う。

ネットが台頭して、あれよあれよという間にコピペが当たり前のように行われるようになり、
それを正規の論文に使う人たちまで現れるようになった。
ここまでの状況は、さしもの辻さんでも想像外だったに違いない。

ただ、今読んでもその真意は伝わるし、
まさに言い得て妙、と思う。


自分で調べたオリジナルの情報量は、
さん然と輝くWIKIPEDIAの前にささやかな灯程度に過ぎず、
貧相この上ない。

だからついついネットに頼ってしまう。
安易で甘美なWIKI並び類似のまとめサイトという大海に飲まれるまい、
と踏ん張ることは難しい。

でもそんなとき、この辻さんの文章は、
リマインドしてくれる。

それは時間をかけて体得した身になる情報とは決定的に違う、
表面的な上澄みに過ぎない、と。

遅々とした歩みでも額に汗すれば、
自分だけが知り得たキラリと光る新発見は必ずあるし、
それはコピペよりも活きがよくて生命力にあふれているはず。


すでにコピペ横行の時代に突入した今、
辻さんの文は、警鐘というよりも、激励へと姿を変えていることに気が付いた。


2017.08.27 Sun | Books| 0 track backs,
辻邦生「夏の砦」とプルーストの類似点
学習院大学で開催された「辻邦生『夏の砦』を書いた頃」展、
及びそれに関連する加賀乙彦先生の講演会に触発されて、
『夏の砦』を読んでみた。


死によって美の昇華を試みる辻邦生氏の耽美的な面がうかがわれる物語で、
内容自体はプルーストの『失われた時を求めて』とは
全く異なる趣なのだけど、
文章の端々にプルーストの影響が垣間見られて驚いた。

その類似点を列記してみる:


1) 一人称の語り
プルーストは、三人称の限界を感じ、
『失われた・・』で一人称に取り組んだ。

『夏の砦』も同じく一人称。
しかも語り手が途中で入れ替わるというトリッキーな面があり、
視点を変えるのなら、三人称の方が適しているような気もするが、
それを押して敢えて一人称を選択した。
その強引さこそ、プルーストの影響ではないだろうか。
しかも両者ともに、子供の視点を盛り込んでいる。


2) Mise en abyme
プルーストも辻邦生も、ともにそれぞれの著書の中で
Mise en abymeの手法を用いている。
Mise en abyme・・この言葉は、日本語に実に訳しにくい。
絵ならば画中画、というぴったりした言葉がある。
書の場合は、既成のピンとくる単語がないけれど、
書の中に別の書を滑り込ませる手法だ。

『夏の砦』では『グスタフ侯年代記』という別の物語が語られ、
『失われた・・』でプルーストは、独自の文学論ともいえる批評文を入れている。

Mise en abymeという言葉はアンドレ・ジッドが初めて
用いたといい、単に作品の中に別の作品を盛り込むだけでなく、
Abyme=深淵という言葉が指し示す通り、
それがチェーンのようにとめどなく続いていく感覚を含んでいる。

プルーストは、書の中に批評文をさしはさむために
一人称が最適、と判断したそうだ。

辻さんの一人称は、どちらかというとミステリーを長引かせるために
使用した印象もある。
すぐに手の内を明かさない、意図的な隠ぺいを行うのに
一人称は最適だったと考えられる。
しかしプルースト同様”書中書”を試みていることを鑑みると、
そのための一人称であったとも考えられる。


3)ライトモチーフ
『夏の砦』では樟、
『失われた・・』では水・闇・光・夢。
それぞれ繰り返されるモチーフが底層に鳴り響き続け、
作品のバラバラのピースをつなぎとめている。


4)個性的なメタファー
プルーストのメタファーには毎回うならせられる。
想像力が突飛もない方向に駆け抜けていて、
それでいて、唯一無二とも思えるほどの
フィット感がある。
一般人の想像を超えるメタファーは気を付けないと、
「狙った感」だけが浮いてしまう。
よほど共感できるものでなければ大外れする。
そのリスクをとった上え生み出されるプルーストのメタファーは秀逸だ。

辻さんのメタファーはそこまで奇をてらった感はないけれど、
時折想像力豊かな読ませるものが登場する。


5)主体性をもったモノたち
バルザックとなど一世代前の作家たちとは異なり、
プルーストは、事物に主体性をもたせ、イキイキと描き込んだ。
この点は、プルーストの革新性でもあり、特に色濃い特色といえる。

辻さんも、一部ではあるけれど表れている部分があり、
プルーストを想起させる。
「天井は笑い上戸」、などと書かれているくだりだ。


6)人間の多様性
登場人物のポートレートのアプローチは、
辻さんとプルーストで随分異なっている印象があるけれど、
それでも人間の中に潜む多面性では共通していると思う。


その他、
・記憶へのまなざし
・行きつ 戻りつする時系列
・冒頭に登場する「長い間」Longtempsの言葉
・プルーストが愛したモーヴ色(辻さんは1回だけだけど使用している)
・祖母や母へのまなざし(父の存在は薄い)

など、『夏の砦』の中には
プルーストの空気・気配が充満している。
辻氏の初期の作品であることを鑑みると、
プルーストが体得したものを自作で試みている、
一種の習作のような雰囲気が感じられる。


別の辻さんの書『美神との饗宴の森で』では、
実際にプルーストの『失われた・・』への参照が見られ、
熱に浮かされたように本書を読んだ時期があったことは間違いない。

秋に行われる辻さんとプルーストを主題とした講演会がを
心待ちにしている。


IMG_6963_201708192202445b4.jpg 


関連エントリー(辻邦生さんの奥様・佐保子さんの作品を読んだ):




2017.08.19 Sat | Books| 0 track backs,
「正解のない言葉の冒険」 ・・ 絶妙な和訳
日経新聞文化欄で見つけた鴻巣友季子さんのエッセーが
興味深かった。


鴻巣さんは初夏のこの時期、学校をめぐるなどして
ご自身の専門である翻訳に関する認識を広める活動をされている。

実際子供たちに短文を訳させてみると、
予期せぬ秀逸な訳が見受けられるという。

中でも、「風と共に去りぬ」の最後のシーンで
スカーレットがつぶやく言葉、
Tomorrow is another day」を高校生に訳させたところ、
しごく秀逸な訳が飛び出たという。
(私自身、度肝を抜かれた。)

それはー
とりあえず寝よう」・・・


なんたる発想。
普通に「明日には明日の風が吹く」と私なら訳すところ。

原文の音の響きにもマッチして、
しかも、明日の事なんて今考えても無駄よ、
のニュアンスが、もうこれ以上ない端的な言葉で表されている。
絶妙に真意を組んだこの投げやりさ加減といったら。。


上記は言葉の上でずいぶん逸脱した訳なので、
文学作品の実際の訳に採用しうるかどうかは微妙だろう。
とはいえ、
たとえ原文から言葉の上では逸脱しても、
その根っこの部分を的確に押さえているので、
言葉が似ているけど意味やニュアンスが伝わらない、
というケースよりよほどいい。


以前読んだとある訳本は、
原文の細かいニュアンスがキーになる場面で、
それをばっさりそぎ落として、安易な慣用句に置き換えてしまっていた。

確かに日本語のその慣用句は、原文に出てくる言葉が丁度盛り込まれていて、
一見似た印象を受けるのだけど、
原文と比べると、エッセンスが完全にずれている。

言葉や文章の構造が似ていても、
ニュアンスに無神経な訳は残念すぎる。


翻訳って本当に難しい。
筆者の鴻巣さんが言うように、「翻訳に正解はない」のだろう。

それでも、プロの翻訳家さんなら、
言葉や文章に真摯に向き合ってほしいし、
そうした苦労がにじむ訳文であってほしい。
2017.07.04 Tue | Books| 0 track backs,
東野圭吾「危険なビーナス」 <読後感> ネタバレなし
東野圭吾の「危険なビーナス」を読了。
昨日は人間ドックだったので、待ち時間の間に
結構はかどったおかげ。

待ち時間の長いイベントでは、こうしたミステリー系の
小説が重宝する。

人間ドックなどは細切れに名前を呼ばれる。
そうした集中しにくい環境でもぐいぐい読み進められるのだ。


危うい道に引きずり込まれた主人公。
終始一貫危険な香りが漂って、
読み手の方は、もどかしい思いがずっとくすぶり続け、
フラストレーションがマックスになった最終盤、
一気に物語が展開する。


これぞ推理小説。
想像のうんと斜め上を行く運びになった。

それまでのやるせない思いはどこかへ飛ぶと同時に、
それはそれで、えーー!!という
別のやるせない思いが浮上する。


さらに途中に出てきた思わせぶりのキーワードは
結局なんの意味もなかったようで、
(彼女が手嶋と名乗った下り)
キツネにつままれた感じもある。


とはいえやはり読みやすい、東野圭吾。
言葉がなめらかで、どんどん加速度がつく。

今回のタイトルは、ある意味 作者の罠ともいえる。


2017.06.28 Wed | Books| 0 track backs,
失われた言葉を求めて: 文豪の草稿、プルーストのカイエ
◆ 失われていく制作過程の軌跡 図書館のバックヤードツアーにて


図書館のバックヤードツアーに何度か参加したことがある。

近代文学館系や公立図書館が企画したものだ。

古書や希少本、豪華本など見どころは多いけれど、
なかでも目を見張ったのは文豪たちの草稿だった。

何度も遂行を重ねた跡があるかと思えば、
速い筆致で一気に書き上げ、らすらと筆をすべらせたものもあり、
手書きの原稿用紙には、様々な軌跡が残されている。

完璧な最終作の裏にある作者の苦悩や情熱を
それらは雄弁に物語っている。


あるいは、バックヤードツアーに行かずとも、
ネットのアーカイブ機能でこうした手稿を検索することもできる。

例えばフランスの国立図書館が運営しているサイトでは、
全7巻の大作「失われた時を求めて」を執筆したマルセル・プルーストの手稿を
カイエのマイクロフィルムとして一挙に見ることができる。


無題 


この手稿こそが、プルースト研究には欠かせない材料となっていて、
さまざまな論文が発表されている。


人物の役割の変化、
書きあぐねたテーマ、
膨大な推敲を経ても終始守られた不動のテーマ、

などを検討することで、
プルーストが重点を置いた点、
心の変化などが細やかに浮かび上がる。


例えば、ママン(母)の描写は、
速い筆で書かれ、ブレることなく一貫していたという。

本作を書く上で、母のテーマがひとつの契機となっていたことや、
母への並みならぬ愛情が改めて伺い知れる。


こうした制作過程を映し出す手の跡はしかし、
パソコンによる制作によっていまや確実に失われている。

今後世の中に残るのは、最終作のみになっていくのだろう。

書いた後に削ったマイナス部分、逆に付加された部分、
そしてそれらが浮かび上がらせる作家の心理状況などは
まるで始めからなかったかのように切り捨てられる。


貴重なものがまたひとつ、便利さの犠牲になっていく。

2017.03.12 Sun | Books| 0 track backs,
ロラン・バルト「エッフェル塔」
近代フランス人哲学者ロラン・バルトの「エッフェル塔」という書の後半に、
バルト論について書かれたページがあった。

それによると、バルトはすき焼きのことを
「中心のない食物」と言い

天ぷらを
「すきまの集合体」と定義した。

そしてその根拠がずらずら並べられている。
わかったようなわからないような。

食べ物がここまで哲学まみれになると、
なんとも味気ない。

ただおいしく食せばいいと思わなくもない。

ちなみにこのバルト氏、
元アナウンサー中村江里子さんのご主人の縁者だ。

でも、ロラン・バルト氏は、その家系の中では異端だったと聞く。
血筋的には軍人など勇敢な人物が多く、
そんな中、柔らかい部類として浮いていた、らしい。



2017.03.06 Mon | Books| 0 track backs,
辻邦夫「春の戴冠」 のススメ
去年から相次いでボッティチェリ展が各所で行われている。

私は正直、ボッティチェリの作品はそれほど好きではなかった。
イタリア旅行に行き、ウフィツィ美術館へは行った。

「プリマヴェーラ」や「ヴィーナスの誕生」などの名画は見て、大感激した。

けれど、数か月滞在したイギリスで、ボッティチェリ後期の作品を矢継ぎ早に見たせいで
「プリマヴェーラ」や「ヴィーナスの誕生」の輝きがすっかり曇ってしまった。

とくにナショナルギャラリーには、
マニエリスムに片足をつっこんだような、神秘主義に走ったような、怪しげな画風が目白押しで、
結局、彼の画業がしりつぼみで終わってしまった印象がある。


でも、(以前にも記したけれど、)辻邦夫氏の「春の戴冠」を読んで、
例え終わりはどうあれ、最盛期の絵を純粋に愉しめばいい、そう思えた。

フィレンツェ黄金期の、何かが崩れる不安をかかえつつも
栄華をどん欲に謳歌した人々の歓喜に溢れる「春の戴冠」。

あの時代の空気があったからこその「プリマヴェーラ」や「ヴィーナスの誕生」なのだ、と気づかされる。

栄華を極めた当時の風俗が、あの絵たちに凝縮されている。



2016.01.23 Sat | Books| 0 track backs,
「さよならドビッシー」 <読後感>
第8回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した中山七里氏のミステリー。

音楽的要素をふんだんに含み、単なる謎解きだけでなく、
曲の調べが作品の雰囲気をドラマチックに盛り上げている。

東野圭吾さんのマイルドな作品に慣れた身には、
鋭利で冷酷な描写にインパクトを受けたりしたけれど、
謎解きという意味ではうまくまとまっている印象。

もっとも、メインの殺人の方は犯人が途中でわかってしまったのだけど。
しかも、犯人はあの人で100%間違いない、という確信をもって気づいてしまうので、
種明かしのくだりの意外性がなく、それはちょっと興趣半減といったところだった。


一方で、核となる音楽コンクールの話の結末を知りたいという思いにより、
テンポをもって読み進められる。

病院通いが続いた10,11月、長い待ち時間をつぶすには好都合だった。

一番気にかかっていた検査結果待ちの際は、待合室で純文学などとても読む気がせず、
かといってじっと待つのは辛くて、
この本にある意味救われた。



2015.12.16 Wed | Books| 0 track backs,
半藤 一利先生 x 宮部みゆき先生 対談
半藤 一利先生 x 宮部みゆき先生の対談形式で綴られた「昭和史の10大事件」(東京書籍)発売を記念し、
八重洲ブックセンターで、続編的なおふたりの対談が開催。
先日会社の後輩とともに潜入してきた。


半藤先生は、想像通りのイメージだったものの、宮部先生はとてもソフトで話し上手。
一流文筆家先生とあがめられる対象でありながら、尊大な感じはみじんもなく、
好感度抜群なのだった。

本の帯に載っているご自身の近影を示しながら、
「このセーター(写真の中で先制が着用している縞模様のセーター)が派手すぎた」、
と言いつつ、この日は地味なお姿で。


本書で語られなかった秘話、ここだけの話なども盛り込みつつ、
もっとお話を聞いていたかった思うほど、滑らかに高密度に進行したのだった。


半藤先生はもともと文芸春秋編集長として「エーゲ海に捧ぐ」などの選考に携わった。
選考の現場はかなり激しいもので(今は違うのかもしれないけれど)、
殴り合い、取っ組み合いのけんかも多発したそうだ。

また、本書に出てくるヘルシンキ五輪の逸話には続きがあった。
選考会の折り、30㎝(?あるいは2m)の差で五輪代表を逃した半藤先生。
ところがエイトでなく4人乗りで4大学対抗で闘ったところ、
半藤先生のチームが優勝。
慶應の代わりに五輪に出ていれば、、、メダルを目指せたのではといったニュアンスを残しつつ、大笑い。


その他小泉信三先生との逸話など、昭和の香り漂う話が続いた。


Photo3.jpg




2015.10.07 Wed | Books| 0 track backs,
"shw-greenwood" template design by Shallwill